昭和四十七年八月七日 朝の御理解
x御理解 第一節 「今天地の開ける音を聞いて眼をさませ」
信心は悟りなりというふうに極言する人すらあります。私は今日の、今天地の開ける音を聞いて眼をさませと、眼をさますという事は、これではいけなかったという事が、まずわかる事だと思う。
例えば、家、蔵、財産を無くしてしまってそしてはじめて眼がさめたといったような事を申します。だから家、蔵、財産が無くなってしもうて、眼がさめたと。
それでも、やっぱさめん人がありますけれどもそれではつまらん。信心させて頂くとそれは又、どういう事になるかというと、白紙になるということ、これも又難しい 都々逸の文句じゃないですけどね、“なんにもなかった昔と思い、別れましょうと言う未練”。
もう、このような事じゃいけんのだから、何にもなかったものと思うて、もう白紙になろうと、そして別れましょうと言う未練。私達の過去のいわば生き方、いうなら観念、これは本当だと思いこんでおった事。例えば、そういうようなものがね、かなぐり捨てられた時、白紙になったというのは。
そこから私は、翻然としたいうなら、悟りといったような、いわゆる眼がさめたようなおかげになってくるんじゃないでしょうかねぇ。
ところがまあだ、まあだ、自分の力とか、自分の生き方という事などがです、まあだ本当だと思うてはおらんごとあるけれども、それを思うておる。
商売なら商売の行き方とか、あり方というのが、これだけは自分の行き方が本当だというふうに思うておる。
だから本当の純粋な信心でのいわば商売が出来ない。出来ないからおかげが純粋になってこない。只、純粋ではないおかげと、只、今日も商売繁昌のお繰り合わせお願いしますといわば、今までの行き方で商売繁昌のおかげを受けるんだ。やっぱり。
けれども、本当の澄みきったおかげというかねぇ、もう教祖金光大神が教えられたれた事を、そのまま地でいくような行き方で商売でもさせてもらうという事に、翻然と腹が決まった時に、私は、決まる事が翻然として、心が開けなければ出来ないと思う。そうせにゃいかん、そうせにゃいかんと思いながらです、結局別れましょうという未練になってしまう。
これじゃいかん、これじゃいかん、別れないかんと思いよる。けれどもそこに又、キッとしたものが生まれてこない。
昨夜、企画の方達が集まっておられた。いろいろとお話があった後に、私が参りましたんですけれども、今日佐世保の方から、何人か見えるらしい。どうもそのやってみてから、そこに行き詰まり、ここはどうしてよいかわからんというところが出てきたわけなんです。その相談を今日は受けなければなりませんから、例えばはっきり、今日は返事をしてやらねばいけん。
そこでどういうふうな心構えで、又はどう返事をしたらよいかという話になって、丁度昨日は二時まででした。
それでやはり、ここのお広前の延長という頭があるもんですから、どうもその何かすっきりとしないものが、実際は半ば出来かかっとるものが、どうもここの延長にはそぐわないような感じがするわけです。
例えて言うと、ここの大きな柱が建っておるのが、あれは全部右でまかれるわけです。昨日ここから、ちらっと見せて頂いたんですけれども、上は大きな合天井になるわけです。下は洋風に絨毯でという。
私は、上は布張りかと思いよったら、と言うていやいやそんなふうに、いろいろとあるわけです。第一絨毯の色なんかでも、これは、二、三日前、秋永先生に言うとったんですけれども、どういう色にしたらよかろうかという事であったから、神様にお願いさせて頂きましたら、野原に咲いてるゆりがありますねぇ、大きな鬼ゆりですかカ-キ色の色に黒いゴマ粒みたいな点々が入っているでしょう。
だから秋永先生、これは私はそれけれども大体好かんのだと、大体カ-キ色そのものは好きなんでけれども、ここの絨毯をカ-キ威やにするのはどうも私はあんまり。 もう少し地味なおとなしい、紺か何かならどうでしょうかと。
私はどっちかというと紺が好きだけれども、神様から頂いたのは、そういう鬼ゆりの花の色を頂いたから、結局カ-キ色に、ちっと黒をいれたような感じ、でなかったら、はば黄というですか、黒でしぼって中が濃いカ-キ色かと。
けれども私は、どうもそれでも、どうもにぎやかすぎていけないなといった感じだったんです。いろいろ話をきかせて頂いて、返事が出来ないといった感じでした。
私はふと感じさせて頂いた事は、この御広前の延長、延長と思うておるから、ここにマッチしなければいけない。柱でもやっぱり木のこういう白木の出たところでなからないくまいといったところが感じ方をしてるんですねぇ。
そこで私は今日は、こことのいうなら、関係というものを全部いっぺん断ってしまって、あのように例えば銅板ふきで、別戸建てに出来るのですから、ここにこういうしかも今度のは、もうとにかく、秋永先生が言われるのは例えば、相当豪華に何でももしなければ金が随分、例えば坪あたりが高いわけです。だから豪華に出来るはずだという。それをこちらの神前関係のようにまあ、すがずかしいとか、質素とかといったような感じの雰囲気といたものをいつも感じてるものですからね、それがぴたっとこなかった。
そこでこちらは無いものとして考えたんですよねぇ。そしたら頭の中にいろいろのものが湧いてくるんです。
柱でも何でも今度、宮殿の広間に使っておられる、もうちょっと一見茶色を黒くしたようなね、大きなそんなのに大体夕べは決まったんです。
そうすると中にシャンデリアが出来ると、とてもそんな、ここでもちった華やかなくらいのに、あちらのシャンデリアをなんで言いよったけれども、これはいよいよシャンデリアでなければいけないなあという事になってきた。
大きなあの柱が全部黒光りするような、柱になるわけです。いうなら、宮殿のム-ドをそのままここへもってきてもおかしくない。
それでいて、上のあの大きな合天井と向こうにはもう今まで、こげな障子は見た事がないというような大きな障子が張られるわけです。
それやら、これやらというなら、あの西脇殿は西脇殿だけで、例えばいうならば、豪華なム-ドというかねぇ、例えばはじめての人が見えたら、ホッとため息のでるくらいな素晴らしいものになるだろうと、そういう事にすれば。
今までの考え方を全部御広前というこちらの建築様式というものを考えずにあそこだけで考える。あそこだけに例えばその、、、
大体そういうふうに計画しあるわけですね、設計が。それを私共がそれはいかん、これはいかん、これはこっちにはどうもマッチしないといったような考え方が、良い考えが浮かばなかったわけです。
豪華にするからかかるという事じゃない。もうそれはちゃんとしてあるわけなんですけれれども、どうもこちらの延長でなからなならんという頭があるもんですから、良い考えがいわば閃きもなかったわけです。
というようにです、私共がね、これを頭の中にいれておったんでは良い考えは生まれてこない。いわゆる白紙にならなければね。
そんならよい考えですらが湧いてこない白紙にならなければね、理屈ではわかる。 例えば、改式ひとつさせてもらうでもそうです。永年のその仏さまじゃけん、先祖からしちゃるけんという事が理屈を言や、そげんそんなら仏教だって途中から伝来してきたもの。それまではやはり、古神道一本槍できとるのが日本の宗教であったわけなんです。
それを途中から入ってきたたのが仏教である。だから、そういうふうに考えればそうですけれども、やはり未練がある。こげなこつじゃいかん、いかん、折角金光様の御信心させて頂くなら、すきっとしたおかげ頂きたい。又すきっとした信心を頂きたい。そこにはすきっとしたおかげが約束されるとわかっておっても、それこそ別れましょうという未練で、未練がそこにありますから、その観念がありますから、なかなかふんぎりがつかないで良い考えが浮かばない。
翻然としたものになってこない。今日から、例えば西脇殿の事はそういう線で、例えば小道具一つでも、色合いの上の感覚的なものでも、こちらというものをいっぺん切っておいて考えたら、成程あちらはあちらでいうなら、個性のある西脇殿になるだろうという事になります。
こちらとの関係というものを、いっぺん切っておいてそれでいて、そんなら、大祭なら大祭の時にずっと向こうを取り払って、向こうの広間を使ったからというて決しておかしくはない。
私共の永年、これが本当だというふうに思い込んできた事が信心させて頂く事によってです、成程、親先生が御理解下さるように、それの方が本当じゃろうとわかってくる。わかってくるけれども、それを言わば翻然としたものにする事は出来ない。
御理解第三節に「天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子おっでおかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼致し、前々の巡り合わせで難を受けおる」と。
ここのところの御理解を頂きますと、成程、難儀という巡りを作るような生き方、いうならば、本当の事ではなかった事を、本当の事のように思い込んできた、永年間それでお話を頂けば、成程とわかるんだけれどもです、そんなら、いよいよという事になりますと、そこんところがすきっと出来ない。
という事は、いわば天地の開ける事を聞いてもです、眼をさまさない。その眼がさめるという事を今日は、翻然としたいうなら悟りと。
翻然とするという事は、もうすきっとするという事です。そこからすきっとしたおかげ、まざり気のない本当に教祖金光大神がお取次下さるおかげの世界というものが開けてくる。
今までの神様、今までの仏様、今までの宗教といったような観念を捨てなければいけん。金光教の信心は・・・・、観念を捨てるんです。
何様でも同じこつと、それは拝みようはよく似とるかもしれません。祈る言葉等は同じかもしれません。けれどもこれは教祖金光大神だけひそひそ話をするように、天地金乃神様が御依頼をなさっておられる事柄というものは、他の他宗教でみる事が出来ない程しの素晴らしい事なんだ。
お釈迦様にでも、キリスト様にでも、天地の親神様が打ち明けてはおられなかった そのきわぐらいのところくまでは言うておられたけれども、いよいよ本心を打ち明けられたのは、教祖金光大神であった。
ですから他の宗教的なものは、いっぺんかなぐり捨てなければいけんね。翻然としたものになってこない。
神仏の宮寺、氏子の家屋敷みな神の地所、こういうような事やら、そういう例えば勘違いをした頂き方のところにです、そういううがった考え方が積もり積もって、それが巡り合うて難を受けおる。
いわゆる巡りの元を作ってきたとこう言うのである。だから金光教の信心が、そこんところをすきっとしてくると、もう巡りを積まんですむ生活というのが約束されるわけです。金光教の教えは。
私は今日、御理解を頂かせて頂くのに、まず第一にこの白紙のところを頂いた。そして次にこの御理解一節のところを頂いた。御神前では、私がさっき申しました都々逸の文句じゃないけれども、その事を頂いた。
私はの心の中に、これだけはいっちょ改まらにゃおかげは頂けんと思うような事がある。だからこれではいけんいけんとそれに話かけておる。いつも、もうこれで一応さっぱり別れようと思いよる。
又言うたりしよるけれどもです、言うておる中身は未練がそう言うておるようなものである。すきっとさっぱりする。それは次のおかげの展開を願うからですある。
それで白紙になったところ、そこから金光大神のいうなら一言一句がです、そのままに素直に入ってくる。だから本当の金光大神ぶりというですかねぇ。金光教の御信心ぶりというものは、そこまで白紙になって、すきっと頂かなければ、何々様はどげん言いござる、何々宗はこげん言うとる。それをこちらへ取り入れてんなん事のあってよかろうはずがない。
だからキリスト教ふら、仏教やらわからんような感じになってくるのです。天地金乃神様のおかげを、、金光大神のお取次によって、おかげを頂くというおかげは、もう本当にいわゆる金光大神の世界というものはです、もっともっと、すきっとしなければならない。
昨日も秋永先生がお話すんだ後でした、どういうわけでその合楽の場合は、何かその例えば御建築の時でも、次から次とその壁にぶっかったり、難儀があったりするというのは、どういうわけでしょうかという話があったんです。
それは、ああた、これが出来る時の事を思うてみるが一番いい、もうとにかく、その一番つまらん請負師に頼んだ。今度でも、まあだよか請負師はあったろうけれどもこういう事になったというわけなんです。
けれどもね、それは後から考えてみて、成程、熊本の井上さんという、それこそ千万もの仕事はまだした事がないというような、小さい業者じゃった。
もう行ってみてからびっくりした事は、事務所もなかった。大工さんの家にちょいと便所借らしてもろうたら、便所の戸がない。これには私も驚きであった。
これは本当にこの人がしきるじゃろうかと私は思うたです。けれども、ほらこの人でなからねば出来なかったろうがと、何々組という大きいのにしたら、それこそ半年で建ち上がるはずじゃったんです。
そうすると、ほんにここんにきはアコ-ディオンドアが出来て、上は天井張りで、もうどこもここも新建材だったんですよ。
それが二年間もかかっておるうちに、折角ならば、折角ならは言うので、材料もよい材料を使わせてもらうようになり、そんならお金も二年間がかりで支払いが、いっぺんじゃ出来んけれども、そんなら、向こうが五百万円必要というなら五百万円三百万円必要というなら、三百万円払いながら待ってくれとも言わんなりに、お繰り合わせを頂いて、出来上がったところをみると、やっぱり井上組でなからねばいけなかったろうがと。
今度もやっぱ、三和でなからねばならん事がある。もう本当に、大体言うなら設計が出来とりゃ、もうどうも言う事いらん、なあ-もその通りやれば見事に出来るような、それこそ宮殿が出来た時の話を聞きましたけれども、それこそ、スム-ズな事、それはもうちゃあんと検討に検討が加えられてから出来ておるわけなんです。
ですから、大体の信心の理想というのは、ここなんです。今日私が言うのはね、いうならば、今日のお話はもういうなら、私共が先の先に頂くすきっとしたおかげの世界を言っておるわけです。
だから私共それを目指さして頂くという事なんです。秋永先生、ああた、おぼえとろうもん、私どんが御本部へ月参りをず-っとさせて頂いて、永年、何年間というものは毎月参って毎月汽車の中で何かがあったんですよ。これはもう毎月でしたよ。
因縁をつけられたりですね、何かがあった。これは皆さんもお参りなさった方々はようおぼえちゃる通りですたい。
そして一番最古の時でしたか、もう今度のお参りだけは、なあにもなかったですねと、博多に来て言いよった。そしたら鳥栖から久留米の間に問題があった。
あれがしかし最後でした。もうそれからというものは、問題のもの字も起こらんごとなって、いうなら、すきっとした御本部の参拝が出来るようななったというよにです、やはり合楽もまあだ教会になって五年、向こうからしてくると、二十何年になりますけども、本当にすきっとしたおかげ、例えばこれが甘木教会とか、泉尾教会とか阿倍野当たりの大きな教会あたりでは、それこそ銀行に預金してあるとを下げてきてから、いろんな事が出来る事じゃろうと思う。
こっちは同じ銀行でも、銀行から借りてこんならん。けれども、これは私の考えだけれども、あれは神様の金と思うとるけんというわけなんですけれども、同じ神様の金でもです、やはり利を払わんでよかごたる金でなからにゃならんのですいうならば だからそういうおかげを頂くための、いうならば、過程なんだ。だから、そんなら又例えばそんなら、別の建築でもある時には、この前の井上組よりも、少しはましなのが、いわば請負にしてもらったように、今度はもちっとすきっとしたおかげを頂いてくる。これはどうでも、合楽流のごたるですね秋永先生というて話した事でした。 言わば通るところを通らせて頂いておるとい事、だから私が今日、本当にですね、例えば今日頂くところの白紙になってすきっとして純粋に、だからそれは生易しい事じゃないのです。ひとつ々取り払らわれて行くわけなんです。いうなら、不純なものが取り払われていって、それこそ白紙になるところまで頂かして頂いた時です、はじめて翻然としたものが生まれてくるようになる。
r昨日大牟田の教会長先生から、こういうものを送って頂いた。先日からあちらの修行生の方がみえておった時に、あちらの先代の御教えが、これが大牟田教会の信条になっおるという事を話ておりましたから、それは素晴らしいなと私が思った。だから言葉が違っちゃいけんから、あんたがあちらへ帰られたら、葉書ででもよいから、お知らせ下さいというておった。そしたらそれを親先生にいわれたんでしょうねぇ。親先生が直筆でこんなんを書いて送って下さった。「変わった事のあるのがおかげ、それをおかげにさせて頂くのが真の信心」。だから思うのは、これもいうなら過程の信心です。いうなら変わった事のあるのがおかげ、だから建築の場合でも、こうして変わった事があっておる事がおかげなんだ それをおかげにしてゆくのが道の信心だと。まあ、私共は一生ここのところから出られないかもしれませんけれども、これはかわった事が起こってこないで、スム-ズなおかげの頂けれる世界があると、金光大神の世界は。
だから今日はおかげの理想境というところです、今天地の開ける音を聞いて目をさまさせて頂くほどしの信心になってきたら、まあだ私共の過去のいろんな不純な観念といったものがある。それがすきっとしたものになっていない。
大牟田初代教会長が常に自ずからの信心として頂かれた御教えと、わけが書いてあります。だから大体いうなら、ここまでもたどらせて頂くと、到達させてもらうという事は、これは素晴らしい事なんですね、大体は。
けれどもそんなら、このおかげのまあいっちょ向こうのおかげを今日は聞いてもらったわけです。それは小さくこぎっていうならばです、そんなら私共の御本部参拝の時に、いわゆる何かが変わった事が必ず起こった。それで私共そのたんびに反省させて頂いた。
そしていよいよ最後の鳥栖から久留米の間に起きた。それを最後として私共の御本部参拝に支障さしさわりがない程しのすきっとしたおかげになったように、そういうような例えばおかげの世界が全ての上に同じような事が言えるわけなんです。
だから変わった事のあるのがまず、今は合楽ではおかげと頂かねばならない時代じゃなかろうかという事です。それをだから、おかげにさせ頂こうという道の信心をです、本当にそれを成り行きだから、というだけではなくて、その成り行きをおかげにしていく為の信心修行がまあだ求められるわけであります。
こういう例えば生き方に徹底されたところにです、そんならああいう素晴らし大牟田教会が生まれたわけなんです。
その後を受けておられる近藤先生もやはりこれを自らの信心として頂いていっておられる事でございましょうけれども、こういう頂き方のもうひとつ向こうにあるすきっとしたもの、変わった事が起きてくるじゃなくて、変わった事だけではない有難い事だけが起きてくるような世界というのがあるわけです。
いうなら、前々の巡りで難を受けおるというような、巡りのもうでられない、いうならばいわゆる本当の意味に於ての生神金光大神の世界というのがあるという事なんです。だから私共は一生かかっても、それを出来ないにしましても、そういう例えばひとことずつでもすきっとしていくものを身につけていきたいと思うのです。
その為には私が昨夜感じましたように、この御広前の延長だと思うておるから、どうでもそぐわない、しっくりこないというような感じでありましだけれども、別個のものとして考えた時に、これは別個な素晴らしいいうなら、これは何と言うでしょうか、素晴らしい会堂が新たに出来るわけなんです。
全然ム-ドのちがった、しかも豪華な感じの広間が出来る事だろうと思うのです。 そこまでにはいろいろ難関がございましょう、まだまだ。けれどもそれがひとつ々やはりおかげにしてゆくのが道の信心であり、その都度々信心にならせて頂いて、特に御用の一線に立っておられる方達はこの精神でこの御造営成就の事を祈り願わなければいけないと思うのです。
今天地の開ける音を聞いて眼をさませという事を、まず白紙にならなければ、まず今までの観念に区切りをつけなければよい考えも浮かばない。よい翻然とした悟りを開けないという事を今日、只今申しましたような事で聞いて頂いたですね。
どうぞ。